古城、お城めぐり近畿バージョン紹介。ドライブや電車でお出かけしてみては?

近畿の古城めぐり

日本国内には、現存するモノから取り壊されて城跡だけあるいは何も残っていないといったモノなど無数の城があります。

近畿地地方にも沢山の城があり、世界遺産に登録された姫路城や近代に建て直されエレベーターまで設置されている大阪城まで様々です。そこで今回は知られているようで知られていないお城紹介します。

◎鎌倉幕府も攻めあぐねた「千早赤坂城」(大阪府)

大阪府南河内郡千早赤阪村千早にあるのが、鎌倉幕府の大軍も攻めあぐねたと言われる千早赤坂城です。

千早赤坂城は正慶元年に楠木正成によって築かれた城で、千早城が楠木正成の詰城、本城が上赤坂城、出城が下赤坂城となっています。

千早赤坂城は四方を絶壁の谷に囲まれた天然の要塞となっており、唯一城の背後に細い山道となっていて金剛山の山頂へと通じていました。

城へのっ細い道は、現在、金剛山登山道となっており、城への大手道は約500段の石段が造られています。

石段を登ったところが、四ノ丸で一番広い場所となっています。現在城跡は、千早神社の境内となっており、社務所付近が三の丸、社殿付近が二の丸、社殿の背後が本丸となっています。

千早赤坂城は建武以降、楠木氏の根拠地となりましたが、明徳3年、楠木正勝の時に後醍醐天皇率いる南朝方に味方したため、北朝方の畠山基国により攻められ落城し、その後は廃城となりました。

千早赤坂城へは、近鉄長野線富田林駅からバスで金剛山登山口下車したところにあります。

◎千早赤坂城の本城「上赤坂城」

上赤坂城の築城は元弘年間で築城は楠木正成となっています。この上赤坂城ですが、楠木氏の本拠地で、下赤坂城も含めて広義の赤坂城とも言われています。

現行3年に鎌倉幕府に対して反旗を翻した楠木正成を討つため、幕府は大軍を引き連れこの城を攻めにきたのです。周囲に配置した砦群を落とされ防戦10日で落城したのです。

◎千早赤坂城の出城「下赤坂城」

下赤坂城は、金剛山の支脈の一端の甲取山に築いた城で、元弘元年に楠木正成により築城されました。しかし、楠木正成ゆかりの城の中でこの城だけが遺構が何も残っておらず、千早赤坂中学校裏の丘陵の一角に石碑と案内板があるだけです。

後醍醐天皇が笠置山陥落後捕らえられ、正成は護良親王を奉じて、この城で討幕の兵を挙げたのですが、幕府軍によって城は落城したのですが、千早城で勝利したものの延文5年、北朝方により攻められ城を捨てています。

上赤坂城へは、近鉄長野線富田林駅からバスで森屋下車、下赤坂城へは千早赤坂中学校前下車したところにあります。

◎楠木正成ゆかりの城「岸和田城」(大阪府)

元弘4年(1334年)に楠木正成の一族である和田高家が現在築城されている場所よりも東側の野田町に築いたのが始まりとされているのが岸和田城です。

また岸和田城は、本丸と二の丸を重ねた形が「ちきり」に似ているために千亀利城(ちきり城)とも呼ばれています。ちなみに「ちきり」とは機(はた)のたて糸を巻く器具のことです。

天正13年(1585年)に秀吉の伯父・小出秀政が城主になり、本丸を五層の天守に大改築した以降、岸和田城主は小出氏3代、元和5年(1619年)からは松平康重、康映、寛永17年(1640年)からは岡部氏が城主をつとめ、岡部宣勝はさらに城を大改築して近世城郭を築き上げ明治維新まで13代居城していました。

文政10年(1812年)に天守閣が落雷で焼失し、維新には櫓、門など城郭施設を城主自ら破壊し新政府に忠誠心を示したため、近世以前の構造物は堀と石垣以外は残っていませんでしたが、昭和29年(1954年)に現在の天守閣が復元され内部には資料展示室と眺楼などがあります。また、本丸には「八陣の庭」と言われる庭園があります。

岸和田城の天守閣では結婚式をあげることができ、旅行会社でも予約をとることができます。岸和田城は別名「千亀利城(ちきり城)」と呼ばれるので契りを交わすということで縁起がよいと評判になっています。

岸和田城へは、南海本線岸和田駅、蛸地蔵駅より歩いて約7分のところにあります。毎年4月1日から4月15日までお城まつりが開催されています。

◎御陵の中にある城「山城・伏見城」(京都府)

全国の城の中でも珍しい城で、伏見城本丸をはじめ城の中枢部は明治天皇陵(桃山御陵)となっていますので、現在では城郭を自由に散策することはできません。また現在、花畑に模擬天守が建てられているのですが、本来の伏見城天守は二条城へ移築されています。

伏見城は天正20年に豊臣秀吉によって築城された平山城です。秀吉は文禄3年に伏見城(指月城)に移ったのですが、文禄5年に発生した伏見大地震のため城は倒壊してしまったのです。

この後、秀吉は指月城の北東に位置する木幡山に再晋請を行い、慶長2年に完成したのですが、翌年8月に秀吉はこの城で生涯を終え、在城は4年間でした。

伏見城は、関ケ原の前哨戦として石田三成率いる西軍により炎上落城しましたが、家康により慶長7年から復旧工事が開始され、慶長10年に完成したのですが、元和9年徳川幕府の命により廃城となり2年後の寛永2年までに完全に取り壊されました。

現在建っている模擬天守の中は、資料館となっており、また、近鉄桃山御陵前駅のすぐそばに御香宮神社の表門として伏見城大手門が現在も残っています。

伏見城へは、JR奈良線桃山駅あるいは近鉄京都線桃山御陵前駅から歩いて20分のところにあります。

◎丹鶴姫の住まい「紀伊新宮城」(和歌山県)

熊野川河口の南岸の小高い丹鶴山に築かれた眺望の良い城跡公園となっているのが紀伊新宮城です。

紀伊新宮城は、元和4年(1618年)に浅野忠吉によって築かれた天守は、明治4年(1871年)に取り壊されました。

紀伊新宮城ですが、元々は源為義の娘である丹鶴姫の住まいであったことから「丹鶴城(たんかく城)」とも呼ばれています。

元和5年(1619年)に浅野氏に代わり、徳川御三家の一つである紀州藩主初代徳川頼宜の付家老である水野氏が入り、10代にわたり統治が続き、新宮市は城下町として栄えたのです。

城郭には港の跡があり、当時の技術の粋を結集した石垣など、紀州徳川藩の力がわかります。ところでこの城ですが、平成29年(2017年)4月6日に日本城郭協会により「続日本100名城」に選定されたのです。

紀伊新宮城へは、JR紀勢本線新宮駅より歩いて15分くらいのところにあります。

◎赤穂浪士で知られる「播磨赤穂城」(兵庫県)

赤穂城は、千種川河口付近のデルタ地帯に築かれた城で、南と西側は海に面しており、東側に千種川が流れる海城です。

赤穂城は国史跡となり城内にあった民家は立ち退きとなり、城跡の発掘調査が行われ復元・整備も行われています。

近世城郭が明治維新の廃城以降、建物だけでなく石垣や堀など遺構の大半が失われていますが、赤穂城は一部消失や改変があるものの、往時の城の全容を把握することができる数少ない城の一つなのです。

赤穂城は、慶安元年に浅野長直により築城され浅野長直、長友、長矩と続きましたが、元禄14年に浅野長矩は、江戸城松の廊下で高家の吉良義央に刀傷を負わせ、浅野長矩は即日切腹、播州浅野家は断絶となりました。この判決を不服とした赤穂藩家老大石内蔵助をはじめとする47名が、元禄15年12月に吉良邸に討ち入りを決行し、吉良義央の首を取り本懐を果たしたいわゆる「忠臣蔵」の物語となった藩士の城なのです。

播磨赤穂城へは、JR赤穂線播州赤穂駅から歩いて10分くらいのところにあります。

◎まとめ

日本には色々なお城があり、またその城にはいろいろな物語もあります。その城の時代背景や築城した人物像を思い浮かべながら訪れるとまたひと味違ったお城めぐりができ面白いですよ。

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